二条城 考察・・・

二条城 考察・・・

写真はイマイチの出来具合ですが、先日の夜桜見物のときの写真(二の丸御殿)です。

徳川三代将軍 家光 により落成できたこの平城は、当時の徳川幕府の威光を世間に知らしめす
のに十分な規模と造営でありました。石組の見事さも現在にいたるまで大したモノです。

しかし、なぜこの場所に二条城が造られたのか?
たまたまこの場に建設したのか?

その昔、御池通り付近には大きな池があり、水捌けの悪い地であったといわれます。
その水の多い地盤の悪い地に二条城の建設が行われたのです。
地盤の安定にはかなりの地盤改良?補強?が行われたことでしょう・・・

もうひとつ・・・
二条城は将軍が入洛した際に京都で宿泊するために施設です。
徳川幕府は関東にあり、本拠地は江戸。
京都は遥か西方にあり、天下を平定したといえども、外様が多く、絶対安心などとは
言い切れないでしょう。
もし入洛した時に、有力大名の謀反でもおきれば、まずは江戸にとって帰し、
軍勢を引き連れてこなければならない。

もちろん将軍が丸腰で入洛するはずはなく、二条城内にも武器弾薬の備えはあるのは当然
でしょうが、押し寄せた数万の軍勢に城を囲まれては、甚だ危ないことでしょう。

こうなることを考えると、異変を察知したならば、すぐさま江戸に引き返せる位置が
将軍の宿泊地には重要なこと。

しかし京都の地図を上からみれば、鴨川が南北に貫通している。
鴨川を渡るには、むろん橋を渡らねばならない。
二条城から江戸へ引き返すには、必ずこの鴨川を渡る必要がある。
次第によっては、手勢数百のみを引き連れて、場合によっては、将軍の一騎駆けで、わざわざ橋を
渡り、鴨川を越えて江戸まで帰らねばならない・・・
もし橋が、敵の手に落ちていれば、二条城に篭城するほか道はない・・・


将軍家光はよほどに、徳川の力を揺ぎ無いモノと考えていたのか?
謀反などアリ得ぬと自信があったのか?
京都より西方は危ない大名が多いと思うのは後世の者が考えることなのか・・・?
他にも何か訳があったのか?

徳川幕府 創始者 家康ならば、かように危ない地理的条件で、将軍宿泊施設を完成せしめた
ことであろうか・・・
と考えます。

shingo




















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2007年04月23日 Posted by西川真悟建築設計 at 21:37 │Comments(0)時間と空間を楽しむ

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